レイのこと

にっき
06 /15 2013
二年前になるんですが文学フリマに出展したコピー本を読み返す機会がありまして、なんだか懐かしくなって、もう今だからっていうのもないんですが、いいかなぁと思いここに更新してみます。
昔飼っていた猫のエッセイで、当時色々胸に去来するものがありまして一気に書いたものです。
最近こんなふうに文章書いていないので寂しいです。書きたいなぁといいながら月日が流れてゆきます。


レイのこと

小さい頃から動物が好きだった。人形遊びには興味を示さず、ぬいぐるみを持ち歩いていた子供だった。だから小学校にあがる頃には動物を飼いたがる子供になっていた。
 私は神奈川県茅ヶ崎市の団地に、十三歳中学一年の一学期まで住んだ。十九歳で七つ年上の父と結婚した母は、当時何十倍という倍率で公募された公団の団地に必死で葉書を書き、当選をはたし姑と三人で暮らし始めた。二十歳で私を二十四で弟を産み、あっという間に家族は五人となった。
団地では原則として小動物は飼うことを禁止していたのだが、周りには密かに小型犬や猫など小さい生き物を飼っていた家は多かった。だから公然の秘密として、動物が好きな家庭はなにかしら飼っている家が多かった。
熱帯魚や文鳥を飼っていた家もあったが、それらは皆親の趣味だったように思う。飼っていた家の子供はあまり興味は示していなかった。家にあるから見ているそんな印象だった。ところが、ブームだったハムスターやテーブルうさぎは、動物好きな子供がせがんで飼う動物だった。この生き物がある家は子供が動物好きで積極的に世話をしていた子供がいる家だった。
私は母が小動物を貰って帰ってくると一番に飛びつき、世話をかってでた。私の情操教育のつもりもあったのだろう。与えた後は他の家族は一歩下がり様子を見守るというスタンツがあった。
私は縁日にゆくたび、屋台のかわいい生き物が欲しくなった。しかし母はなかなか私の懇願に耳を貸さなかった。だが時々一人で遊びに行った東京の祖母には、何度か買ってもらった記憶がある。ほかの何もいらない、あのひよこが、うさぎがほしいと、頑なに言い続けた子供頃の私は悲壮に映ったにちがいない。弟が病気で親がかかりっきりでかまってもらえなかった私を不憫に思い三ヶ月に一度は遊びにこさせていた祖母は、私をかわいがってくれた。私はそれを計算して頼んだ。そうして一度だけテーブルうさぎを買ってもらったことがある。しかし祖母の家から帰る頃には死んでしまった。長くは生きられなかった。
このころ飼っていた小動物の生きざまは、生きる力を感じるものばかり。銭亀と二十日鼠は脱走をくりかえし、亀は流しの下から大きな亀となって見つかり、二十日鼠は三回逃走したはてに戻らなかった。二十日鼠は鼠だ。害獣である、我が家から逃げ出したとしれたら大変なことになる。そう考えたのだろう母はその行方をうやむやにした。たぶん私が近所の人に話すのを恐れたのだろう。どこか遠くへ行ってしまったのだと言った。
当時、流行していたハムスターは小学二年生頃から飼い始めた。最初の私のペットとして飼った生き物だ。名前はノンタン。弟の持っている絵本の主人公からとった。ハムスターと言っても鼠、二十日鼠と同じで早速脱走をくりかえした。最初に飼ったハムスターは脱走に成功して、もどってこなくなった。二度目に飼ったノンタン二号は長生きし、どこに行くにも一緒だった。旅行に行くにも遊びにゆくにもポケットに入れたりしてつれ歩いた記憶がある。その毛並みと強く握ると手の中で暴れる感触がまだ掌に残っている。噛まれても、意志の疎通はできなくてもいつも私のそばにいて、話し相手になってくれた。 
半年以上一緒に暮らしたと思う、そのノンタン二号がある朝突然死んでいた。あの時の驚きと悲しみは大きく、どうして死んだのか理解できずにいた。病気の気配もなく元気にしていたのになぜ・・・・・と泣きながら堅くなった体をなぜた記憶がある。
原因は親にあった。前の夜、晩酌の相手にノンタンを籠からだし、ビールを呑ませたのだ。夜中父と母は酔ってハムスターに悪戯することを思いつき、ゲージから出し酒を与えたのだ。思いのほか良く飲んだので、どんどん飲ませたというのだ。この事を話す母をよく覚えている。一ヶ月たったある日彼女はふらっと、こう述懐したのだ。私が悲しんでいるのを見て良心の呵責を感じたのだろう。私は話すことによって罪が軽くなると思っている母の考えと、薄ら笑いさえ浮かべて謝ろうともしない大人の汚さに、私は言葉にならなくともはっきりとした憎しみを覚えた。
母を許す許さないではなく、そんな大人が近くにいることに唖然とした。そのころの私にとって母とは、感情のままに叩かれ、嫁姑の諍いのとばっちりを受け、何週間もねちねちと意地悪く文句を言う、そんな得体の知れない他人のような大人だった。
それから暫くたったある日、母がどこからか三毛猫を連れ帰ってきた。団地の友達から貰ったのだと思う。どこからか話がでて貰ってきたのだ。母は猫派の人間で、実家は魚屋をやっていて何度か猫を飼っていたこともあると、いつも自慢していた。
父は犬派で猫が苦手だ。だが父は母がやることには、大抵最初は意見を言わない。不満があっても黙っている。それが蓄積してある日突然爆発し夫婦喧嘩をする。そうすると同居している姑が、父の見方をする、大きな喧嘩に発展する。結婚前と約束が違うと母が言えば、姑は心臓病の弟の話をもちだし、あんたの身持ちが悪いからだと責め立てる。そうなるとどっちの家系に心臓病の親戚がいたのか、遺伝的にはどちらが優勢かという話しになり、それを当の弟の前でやるからたまらなかった。たいてい私が泣き出すか(それでも収まることはない)母が実家に電話してもっと大きな喧嘩となり延々と続く。
猫が我が家に来たときも、そのきっかけになるのではないかと、私はびくびくした。しかし父は猫を受け入れかわいがった。名前は母がつけた。たま、だ。名前はなんでもいいとか、以前実家で飼っていた名前だとか、そんな事を言っていたように思う。大人になる少し前の三毛猫で、しつけは貰ってきた友達が全部やったのだという。ミルクもぼちぼち卒業だから、残飯をあげればいいだけだ、と母はまるで自分の手柄のように話した。
トイレの箱を用意すると、砂は団地の前にある公園の砂場からもってきた。プラスチックの皿一つ流しの下に置いて餌箱とし、たまとの生活は始まった。
始まってみると、世話は祖母と私がすべておこなった。食事を用意するのは祖母で、トイレの砂をきれいにするのは私の役目だった。結果、私と祖母にたまはなついた。母は気が向いた時だけ、たまをかわいがった。それはなんとも彼女らしかった。酒の肴をあげることはあってもアルコールは与えなかった。たまは病気になることなく大きくなった。
時はあっと言う間にたち、秋に特徴のある声で鳴くようになった。繁殖期がきたのだ。黙るように言っても声高に鳴くことが多くなり、団地では鳴き声が聞こえてしまう。母は父と相談し、ある日曜日の早朝、車を運転し江ノ島までたまを捨てにいくことになった。
前の夜、母は私におわかれをしなさいと伝えた。そして日曜日の早朝、私と母は江ノ島の入り口まで行き、まだシャッターの閉まっている魚屋の前にたまを置いてきた。
「ここには友達がたくさんいるから」
と繰り返し母は言った。しかし私にはそれもまた母にとって都合のいいいいわけにしか聞こえなかった。去勢手術はかわいそうだから、野生に戻しましょうと言っていた。私にはそれが金を出すのは面倒だからというようにしか聞こえなかった。一週間に一度の絵画教室、月謝三千円のお金がもったいないと何かあるごとに責められていた私にはそれが一番自分に納得できる理由だった。
それから暫くの間、母は思いだしたように。
「今頃たまはどうしているかなぁ」
と私に聞こえるようにつぶやいていた。
その言葉は嘘ではないと思ったが、ろくに面倒もみなかった母がどこまでたまを思いやっているかは怪しかった。
それから長い間、我が家では生き物を飼わなかった。私が高学年になり、あまり小動物をほしがらなくなったことと、母と父には家を買うという大きな夢ができ、郊外に土地を見に行ったり、戸建ての分譲があるときけば資料を取り寄せたりで頭がいっぱいになったのだ。
そして一家は茨城の一戸建てに移り住んだ。神奈川の海の近くの団地の一室から、茨城の川近くに移り住むことは大きな出来事だった。私たち家族は庭付き一戸建ての生活というものがわからなかったので、最初は戸惑い何をするにも車が必要という生活に慣れるのに暫くかかった。しかしそれもうれしい戸惑いだった。それまで東京の大学病院との往復に使うだけだった車の他の用途ができたのだ。そして私は二階に自分の部屋を持てた。同じ部屋に住んでいた祖母は一階の和室をあてがわれ離れて眠るようになった。
これほど父と母が仲が良かった時期もなく、新しい家具や電化製品に囲まれてこれ以上ない母の上機嫌な時期が訪れた。
私は自分の部屋にこもり、好きなだけ遊ぶことができた。もとより気にかけられていない存在だ。何をしてもこちらから関わらなければ近づいてはこなかった。それが思春期の私には気楽で心地よかった。
と、同時に深い孤独にも悩まされていた。心ない言葉はいつも友人よりも親から投げられた。この時期、隣の部屋で寝ている父に首を絞められる夢や、母を殺す夢を見ていた。またそれに全く罪悪感を感じていなかった。愛されたいと思っていた小学生時代を越えて、全く愛を望まない子供になっていた。でも本当は欲しかったのだと今は分かる。そのころはそう思いこもうとしていた。
父と母は子供のことより自分のことが大切だった。今になってつくづくそのことに思い当たる。病気の息子を持ち、周辺の人からは同情をかい様々な免除や優待を受けていた。その利益をほとんど全て母は受けて、病弱な子供の母という人間を演じていた。私は理解ある娘ではくてはならなかったのだ。だが自分より出すぎた娘ではだめだった。家族の中で私は祖母に次いで下の身分として存在していた。時々思い出したように愛をひけらかし、母は何か餌を用意して私に媚びをうってきたりもした。たいていお金や物だ、私が頭を垂れるとそれに満足し、やがてまた気分のムラから攻撃されこっぴどく追いやられる。その繰り返しの時期だった。
そんな家庭の中にレイはやってきた。母は新居での生活の一段階として生き物を飼うことを決めたようだった。弟の通院していた病院で知り合った家に子猫が産まれ、母が譲り受けてきたのだ。その知り合いは母の憧れの家庭で、家ではその暮らしぶりについてくどくど父に話していた記憶がある。裕福で恵まれている家庭だと話していた。それがどういうことなのか、一戸建てを買って生活している母は、まだ何か不満があるようだった。それともそのように口走っていただけなのかもしれない。私はよく母が他の家庭のことをこと細かく恨めしく語るのを不思議な気持ちで聞いていた。他の家は他の家ではないのか、そのようなことをいっても何も始まらないのではないのかと子供心に感じていた。生きてゆく環境にはどうしようもない部分がある、と考えるのは親よりも子供のほうが強いのかもしれない。
そんな母にとって憧れの家庭から貰ってきた猫は生後三ヶ月の三毛猫だった。たまは白地が多かったが、新しい猫は茶と焦げ茶の部分が多かった。前足は白くたびをはいていて尻尾は長く先まで真っ直ぐだった。小さい声でみゃーと鳴き、柔らかくふかふかで、抱いてみると生暖かい、ふにゃっとした生き物だった。その頼りなさに私はすっかりまいってしまった。
早速猫砂を用意し(今回も私の役目だった)プラスチックの皿を用意し、キャットフードを買っておもちゃをそろえ飼い始めた。猫の世話は私となり、名前も私がつけることを許された。名前はレイとした。当時「北斗の拳」という漫画が流行っていたせいで、母からはそのキャラクター名なのかと囃されたが、小説家のレイ・ブラッドベリからとったのだった。雌なのに男性名であることにまた囃されたが、私は当時自分の性が嫌で、男になりたいと思っていたから男性名をつけることに何の抵抗も疑問もなかった。
レイは「レイ」と呼ぶとちゃんと振り返った。鳴いて返事をすることはなかったけど、顔を上げてこちらを向くか、面倒な時はしっぽを立てて挨拶した。
猫は自分の世話をしてくれる人になつく。それに気がついたのはたまを世話しているときだった。トイレの砂を変えたり、餌の皿の中身をチェックするのを猫はちゃんと見ている。そして何か困ったことがあった時には、いつも世話してくれる人のところにやってくることを、たまを飼っている時に知った。これはハムスターや亀にはない喜びで、なついてくれればくれるほど一生懸命世話をした。祖母は、基本的には生き物が好きではなかったようだ。すりよられてもあまり反応せず、ご飯も残り物があったときにだけ与えていた。だが、私はにゃーと鳴けば急いでご飯を皿に入れた。もう言いなりだった。猫にとっても得な存在だったに違いない。
たまの経験をいかし私は必死に世話をした。学校から帰ればレイを探し、風呂に入っても名前を呼び浴槽からお湯を飛ばしてはからかった。
飼い始めた頃、母はレイの母猫について、あれこれと話をした。産んだ他の子猫についての話は繰り返し一ヶ月ぐらい話した。。このレイ以外の五匹の子猫達は大人の手により海の底に沈められたののだという。捨てるくらいなら無いものにしたほうがいい、というのがその家の考え方なのだそうだ。憧れの家の出来事としてどこか尊敬めいた口調でレイを見ながら、母は何度も子猫を海に沈めた話をした。だからお前は運がいいんだよ、と話てきかせていた。その言い方は自分が命を選んだという優越感に満ちていて、聞かされるたびに俗物的ないやらしいものを見たような気分になった。同時に海の底に沈んでゆく同じ三毛の毛並みを持った子猫を想像した。そしてレイをますます元気に育てようと思った。親猫は突然六匹の子供達がいなくなり途方にくれていたそうだ。部屋のあらゆる隙間に向かって鳴き子供達を呼んでいると、これも母から聞いた話だった。
でもそんな物語を聞かせられなくとも、私はレイを一生懸命育てた。傍に来れば背中を撫ぜ、動く耳をつついて遊び、追いかけられれば、追いかけかえしそのまま鬼ごっこになったりした。帰ると鳴きながら玄関まで出迎えてくれるようになった頃には、家にいる時間はレイといる時間となり、飼う前より苦痛はずっと減った。
私にとって家は地獄のままだった。弟が発作を起こせば夜となく昼となくたたき起こされ、じっと母と父が弟の世話するのを手伝うか眺めなくてはならなかった。私はほとんどすることがなかったのに、親は私を起こし眠ることを許さなかった。それは何かの修行のようにこのときばかりは家族として弟の生きる全てにつきあわなくてはならなかった。「起きて、発作が起きたのよ」と母に言われれば起き上がり「こんなに苦しんでいるのよ」と言われれば傍につきそい頷く役目だった。弟が苦しんでいることと自分の奉仕には明らかに隔たりがあるとは、当時の家の雰囲気からは口が裂けてもいえなかった。全ては父と母、主に母が審判をくだし、それに家族は従うしかなかったのだ。
じっと身を堅くしながら家で暴れ回る死神を眺め、レイを抱き上げて毛並み撫でながら時間が過ぎるのを待つ。発作が治まり、いくつかの病院に母が電話をして診察をとりつける。その様子をうとうとしながら居間の隅で過ごし、深夜に病院へ行くことになれば一緒に行った。
レイとの生活は幸せだった。思春期の様々な鬱屈を抱えぐるぐると悩んでいた十代の私とは関係なくレイはのびのび楽しそうに生活していた。それが慰めになっていた。母や父とは全く会話をしなかったが、レイを通して少しは穏やかだったのではないかと思う。
家猫だったレイは家の中にいつもいて、首輪につけた鈴の音をいつもどこかで響かせていた。呼べばすぐに来るし、隠れると探してくれる。その小さな頭の中に私という存在が入っていることがとても嬉しかった。時には不満の声を漏らし、寝ぼけて母親のおっぱいを探す、驚いて飛び上がったり、なんでもない物をおもちゃにしてじゃれる、そんな姿を見るのが何より喜びだった。
辛いときはその背中で涙を拭い、ぎゅっと抱きしめたいときは好きなだけ抱きしめて遊ぶ、まさしく動くぬいぐるみだった。
レイはすくすく育ち一年後の秋、繁殖期を迎え去勢手術をした。白い腹を丸く刈られ学校にいっている間に病院から帰ってきた彼女は少しおどおどしていたが、一週間もすると元通りになった。
この頃から我が家にレイがいるのは当たり前になっていった。学校が休みになるたび弟が長期入院していた為、我が家は旅行にはいかず、少しでも長い休みがあると病院へ通っていた。それに祖母もいたので猫を飼っていても誰かに預けるということもなく、家には常に誰かとレイがいた。
冬になると炬燵代わりに膝で丸くなり、夏は暑さで毛皮のお尻を押しやった。手を出すとかみつきじゃれることも、ごろごろ撫でさせてくれることもあった。日によって態度や気分が違っていも私たちは同じ気持ちで傍にいた。
本を読み感動して涙すれば寄り添ってくれ、ビデオで戦争映画を見て泣きじゃくっていると後ろ向きに背中をくっつけていてくれた。この頃の心を通わせた記憶はレイとしかない。
やがて私は高校を卒業し、地元の工業団地の一角にある工場の事務員として就職した。朝早く出社し夕方過ぎに帰る。高校卒業と同時に免許とった同級生に比べ、私は親に金を出してもらえず、電車で通うしかなかった。車で二十分の距離を一時間半以上かけて通った。それでもレイへとの関係は変わらなかった。一年後貯めたお金を建築の専門学校の入学金にして祖母に補助を頼み、家を出て東京へ行くことになった時も、私は少しもレイのことは心配しなかった。
猫は家につくという。下宿先に決めた東京の祖母の家は一軒家だが小さく狭く飼える環境ではない。レイを連れ出し一緒に住もうとは考えもしなかった。レイと家を一緒に考えていた、といえば聞こえはいいだろう。レイは猫で人間の都合など無縁だと思い込んでいた。自分のことばかりで、心の中には猫一匹分の余裕などなかった。
春に晴れて入学できた私は、中古のワープロと一台の自家用車が積めるだけの私物を持って茨城の家を出た。出ることばかり考えていた。その後の家のことなど考える気もつもりも全くなかった。
上京後、暫くの間家庭は閑散としたらしい。それは想像がつく。家事をさぼりがちな母の代わりに私と祖母が掃除したり、食事を作ったりしていたので、洗濯や掃除を手伝う人がいなくなったのは母にとって痛手であったはずだ。だが母にとって家にいても全く話をしない娘がいなくなってもあまり変わらなかったのではないかと思う。祖母が一番の気がかりだった。歳をとり以前のような元気はなくなったが、母は祖母を心底憎んでいて、時間があれば相手にならなくなった娘の代わりに祖母を責めた。時には昔のいざこざを蒸し返したり、金の無心だったりした。年金生活の祖母に、弟の入院費を出させようとする母に軽い憎しみを覚えた記憶がある。祖母は実家が九州で親戚から金を貰ってこいと言ったりもした。戦争で亡くなった祖父の親類を訪ねればいいとも言った。子供を育てるのに自分の実家ばかりが金を出しているのは不自然だと考えたのだろう。しかし、どうみてもお金のない生活をしてる祖母を説得している母は鬼のように思えた。
その祖母とも離れ私は東京へ出た。レイはこの頃どうしていたのだろう。書いてみて自分の無関心さに驚く。多分母に餌を貰っていたのだろう。トイレの世話は?家事より外に遊びに行くことが多かった母がまめにレイの世話をしていたとは思えない。だからといって足腰の弱っていた祖母が面倒みていたともおもえない。必要最小限のことはしてくれていたのだろうか。母は生きているが、十年以上会ってはいない。聞くこともなく終わるのだろう。

東京へ来て一年がすぎた頃、下宿していた祖母の家へ帰ると祖母が真剣な顔で私に言った。
「お前のお母さんから電話があったよ。泣いてたよ」
 といって祖母は私の様子をうかがうようにじっとみた。私は母の泣き顔をすぐに思い浮かべたが、それで心は揺らぐことはなかった。それよりも五人兄弟の末っ子として母をめちゃくちゃ甘やかした祖母の執着が下宿し初めてから分かるようになり、その祖母と母の親子関係の深さに不気味さを感じるようになっていたので、むしろひいて絶句した。祖母は私が問う前に答えを言った。
「猫が死んだんだって」
 そこで私は初めてショックを受けた。
「レイが?」
「うん、突然外に飛び出して道路にひかれて死んだんだって」
「え、だって家から出ない猫だったよ」
「それは母さんも不思議がってた。出先から帰ったら家にいなくて庭の先にある道路で死んでたんだってさ」
 それは信じられないことだった。レイは時々窓のふちに座り外に出たい様子をみせることはあった。しかし窓を開けても外に出るように促してみせても、レイは決して自分から外に出ることはなかったのだ。
「臆病だなぁレイは」
そうつぶやくと反論するように、短くにゃと鳴くだけだった。
窓の外を見て出たそうにすることはあっても出たことはなかったのに、そのレイがやっと外へ出た途端、田舎のめったに車の通らない道で死ぬなんてなんて不運なんだろう。車一台、通り一本越えればあとは自由だったのに。
人の言葉で死をイメージするのは難しい。私の脳裏には庭に降り立ったレイの姿が、その小さな頭の中につまった堅い決心しか想像できなかった。
死体は庭の籾の木の下に埋めたそうだ。その木はクリスマスに入院していた弟に私と彼氏で買ってもっていった鉢から植え替えた木だった。その木の下に、今はレイが眠っている。そう想像しやっとレイが死んだということを自分に納得させることができた。
それからも暫く私は家に帰らなかった。というより、ずっと前から私は親のいる家を家だとは思っていなかった。


長い長い月日がたった。学校を卒業し、建築事務所に入社し夫と出会った。二人の祖母が続けて亡くなった頃、娘を妊娠した。産まなくてはならない、と思った。大きな川が目の前に流れていた。腹にいる子供と一緒に渡る決心をした。立て続けの事件に一度だけ家に帰った。籾の木の下には何の札もない。でもそこにレイを感じることはできた。鈴の音も鳴き声ももう覚えていなかったが、お前の分まで生きるよと、身勝手な誓いを木の根本にむかって立てた。そうやって私は結婚し出産した。


それから時間は嵐のように過ぎた。一瞬ではない。子供を育てるということは連続して生きなくてはならないということだ。自分の都合で生きることから降りることはできない。生に向き合い続け社会や人と関係し続けなくてはならない。感覚を研ぎすまし、気分で人生を変えることは子供の人生も変えることだと気づかされる時間。小さい時なんてあっという間よ、と年長者はいう。冗談を言って貰っては困る。小さい子供の子育ての時間ほど長く感じるものはない。子供の人間形成のために自分の人生も形成し直す。そんな濃密で重大な時間を、子供と一緒に過ごす。
レイのことは殆ど思い出さなかった。でもあの日向の毛皮の触感を絵本「ふわふわ」を読んで思い出したり、近所の猫を毎日見る度に心の中の私の猫はいつも私を待っていてくれた。レイのまなざしと同じ目で鳴き近寄ってくる猫がいると、あのころの穏やかな感情が蘇る。
今の住環境は猫を飼うことはできない。それでもいつか、いつか絶対飼おうと心に決めている。


去年、バンプオブチキンのアルバムを聴いていて「R.I.P.」という歌を繰り返し聴くうちに再びレイのことを思い出した。そして何度も何度も聴いているうちに、もしかしたらレイは私を捜しに外に出たのではないかと、ふと、ひらめきのようなものが私の中に降りてきた。そう、当時もちらっとそう感じたことはあった。もしかしたら・・・・・・と、あんなに仲がよかったんだもの、もしかしたらレイは私に会いに飛び出したんじゃないかと。でもそのころの私はすぐにそんな仮説は黙殺した。一年以上たってから私の姿を追うわけがない、突拍子すぎる。私はレイにさよならも言わずに東京に来てしまった。そして頑なに家には帰らなかった。それをレイはどう受け取ったのだろう。家にいるから捨てられたとは考えなかったのだろうか。猫だからと私は安心していたのではないか。夜、た私のベッドの上で一匹、何を思ったのだろう。毎朝六時十五分きっかりに顔を舐めて起こしてくれたレイ。絵を描いてるとじゃまをしにきたレイ。新聞を読んでいると、読んでいる記事の上に乗って動かなかったレイ。「なんでこんなに辛いんだろうね」ってその顔に涙をおしつけながら泣いてもいやがらなかったレイ。その生き物が猫だからといって、寂しくないわけがなかったんじゃないか。ふと、二十年以上の時がたって思う。その感情は言葉が与えられてないだけ彼女のなかでどんな形をとったのだろう。そう考えるのは人間の側だけなのだろうか。でも、だからこそ、今、傲慢に思われてもレイはちゃんと私を愛してくれていたんだと感じることができる。
他にだれもいなかったと、一人孤独を気取っていた自分にどれほどの甘えと無神経さがあったのか。繊細なのは自分ばかりで、感覚が鈍い生き物ばかりだと思い上がっていた。愚かさは愚かさを呼ぶ、生きてゆくのに隙無く賢い人などいない。しかしその考えに甘えず生きなきゃと思う。
長く生きてきても、解らないことばかり。正確に覚えてない過去、それにもまして正しくない真実。でも見ていることは確かで、感じている自分もまた確かだ。もう正解は望まない。
 感じている今が大切。独りよがりではなく、自分の為ばかりではなく、たとえそれが伝わらなくても、身の内にいっぱいつめこんで、言葉ではなく伝わればいい。形のなかったレイの心のように、いつか確かにそれはあったと思える何かになりたい。名前はなくても存在していなくても、感じるだけでもいい。そのためにきっと世界はある。二十二年たってその意味を知り、ありがとうといえる。
私は生きている。


                          終わり





 始めまして、こんにちは。文学フリマ初参加です。子供の時から絵を描いたり文章書いたりしてきたのですが、こうして自作の文章として参加するのは初めてで、歳をとってもこんなにどきどきすることがまだあるんだと驚きつつ参加しています。
 小説を書こうと決心したのは1999年の年末でした。生まれつき心臓病を患っていた弟が急死して、葬式やらなにやら見ているうちに、自分の感じたことを文字にしたいと強く思うようになりました。それでもいざ書き出そうとすると何から書いていいのか分からなくて、書いてもなんだか嘘のような感じがして、そのたびに手をとめ悩んできました。
 二次創作を書き、文字にする勇気をもらってやっと今ここに居ます。十三年たって自己治療も兼ねての文章書きです。つたないだらけの文章ですが、僅かでも残したいもの形にしたいものの姿が伝わりましたら嬉しいです。次はちゃんとした小説を書きたい。読んでくださってありがとうございました。


                                    月夜野
                           発行日 二〇一二年五月六日
                           ツキヨノトモシビ                           
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月夜野

東京下町在住・本・建築・ハチロク好き