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どのように物語を読んでいるか

にっき
06 /29 2007
と、いうことについて聞かれているような気がするので(笑)
何気なく答えてみようかなと思います。
小説、特に物語の読み方についての考えのようなものになるのでしょうか?
(↑曖昧極まれり!!)
このブログが読書感想であることもあるので、マイ読書感というふうにとらえてください。

長くなりそうなので、興味のある人だけ どぞ
小説(ここではビジネス書や他のノンフィクション本と区別するために物語とします)を読むことは自分にとってどういうことか、という定義からします。
私にとって物語を読むということは、物語の世界に入り込み、最終的には作者のいいたかったこと、哲学、場所、空間を知るまたは行くという行為です。どんなふうに何をイメージして、何がいいたいのか、何を訴えたいのか、または何が知りたいのか、知りたかったのか、模索したのかという軌跡を一緒に旅するような気持ちです。

これ言うと変なんですが、村上春樹の初期の小説を読んだ時、『何故この人は私をしっているのだろう』と思いました。かなりの衝撃だった印象があります。何で自分の悩んでいることや苦しんでいることがこの人に知られているんだろうと、そう感じたのです。
学生の頃から悩んでいることがあると読書に没頭します。読んだ本に答えが書かれてあって立ち直ったという経験は一度や二度ではないからです。
私にとって読書は切実な答え探しの旅であり、どこかで自分と同じ悩みを持ちそれに立ち向かっている姿に、自己を投影させることなのです。

私と同じ事を感じた人がいたようで、同じような感想がたくさん春樹さんに寄せられたそうです。”そんなこと言われても僕は分からない”と、コメントされていました。数年後に出たそのエッセイを読んで、作者にも分からないことが物語には起こりうるんだと思いました。

私も文章を書いていたので、色んな人から感想を頂いたのですが、意図したもの以上のものや、全く別な感想を持った人がいて、読み返すと確かにそのようにもとれるなと、本人があとで驚いたりしました。
物語はそれ自体が既に独立したものになるのだと実感しました。

改めてどうして読書をするのかというと、それでもやはり私は自分の問いに自分なりの答えを探すために読書しています。それは美術館に行って絵画を見るのと同じです。

遠い昔、時代の全く違う画家の絵を見て私はその時代にもあった人の暮らしや感性、絶望をこえた夢を見たくて見に行きます。そして、ずっと昔にも今の自分達と同じように悩み困り、それでも生きていこうとした姿に共鳴し共感したくて見るのです。

読書も私が想像する作者と実際とは違うでしょう。それでも、好きな作家は好きだし、彼女や彼等が発する言葉を聴きたいと思います。そして心の友達になってもらって物語の中で語らいたいのです。

そういった手段としての読書なので、私にとって一番大切なのは作者が意図したイメージや場所です。この場合、国語のテストなんかで言われる”作者のいいたかったことは何でしょう?”という言葉にできるものではなく、絵画のようなどのようにでもとれる空気というか場所のようなものです。読み手であるこちらの年齢や感情によってどうにでも意味は変化してしまうけど、それでも確かに伝わるものがあって、それを信じて芸術家は表現するのですから、その事柄を知りたくて読むのです。(作家も芸術家ってことになりますね(笑))
そんなことを思いながら読書や美術鑑賞をするのですが、やはり感じることというのは大体似ているというか、芸術家がイメージしたことはなんとなく伝わってくるように思います。

で、スネイプ先生なんですが(笑)5巻を読むまで全く気にしていませんでした。5巻の憂いの篩のエピソードから、がらがらと彼のイメージが出来上がり、好きと自覚するまえに”私は彼のことを知っている!”と思い込んでしまったのです。振り返ってみると勘違いも甚だしいのですが、その瞬間確かにスネイプの存在を感じ捕らえたように思ったのです。彼が自分の中に住みつき、こちらに向かい話しかけてきたのです。これは実感としてあって、じゃ、何を話してきたんだということになると、もうこれは物語なわけです(笑)。

なので私の小説を読んでる間は入り込んでいても、なりきってはいません。むしろ、ホグワー○の場面なら学校の中に空気のように存在しているという感じです。事件が起これば一緒に生徒の後をついてゆき、彼等の会話を傍で聞いているような感じです。以前、違うジャンルで友達になった同人作家さんとの話で『その場で起きていることを傍で見ながら書き写しているような感じですよね』と話したことがあります。出来事を操作したり、キャラクターとして割り込むのではなく、近くなったり遠くなったりしながら傍で眺めている(小川さんは後からついてゆくと表現されました)というスタンスなのです。これは書いている側の発想ですね。

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この本の中に「くりかえす」という短編があります。これに、”旅することは書くことである、なぜなら旅することは読むことだからである。”という一文があります。私にとって読むことも書くことであり、旅することなのです。

話がうまくまとまってない気がしてきました。うーん、的外れのような気が…文章にすると逃げてゆくかんじがします。何故にどのように読むのか?また時間を置いて考えたい、でもきっと答えはでないのでしょう。

「世にも不幸な物語」の子供達じゃないけど、読書に逃げ込むという感じもなきにしもあらず(笑)です。

二月に書いた最後の話の主人公が発した最後の言葉は
「僕は物語の中にいる」
でした。読んでいる時、書いている時、私は物語の中にいます。
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月夜野

東京下町在住・本・建築・ハチロク好き

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